わずか29年で散った思想家・吉田松陰が描いた「理想国家」
多くの幕末志士を生んだ「松下村塾」の教えとは?
幕末の激動期、わずか29年という短い生涯を駆け抜けた吉田松陰。彼が萩の小さな私塾で教えた期間は、実質的にはたった2年余りに過ぎませんでした。しかし、この松下村塾から輩出された人材たちが、その後の日本の歴史を大きく変えることになります。高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎など、明治維新の立役者となった多くの志士たちが、この小さな塾で松陰から学んだのです。
松下村塾の教育は、従来の儒学教育とは根本的に異なるものでした。単に古典を暗記させるのではなく、現実の政治課題について議論し、自分なりの意見を形成することを重視していました。松陰は塾生たちに対して、「学問は実践のためにある」と常に説いていました。この教育方針こそが、後に日本を変革する原動力となったのです。
松陰の教育の特徴は、身分や年齢を超えた平等な関係にありました。武士の子弟から農民の子まで、様々な身分の若者たちが同じ志を持って学び合う場を作り上げました。この経験が、後の「四民平等」の思想につながっていくことになります。
投獄、死罪に処されても、決して揺るがなかった松陰の信念
吉田松陰の生涯は、困難と挫折の連続でした。黒船来航を機に海外渡航を企てて失敗し、投獄されること2度。最終的には安政の大獄によって処刑されるという悲劇的な最期を迎えました。しかし、どれほど厳しい状況に置かれても、松陰の信念は微塵も揺らぐことがありませんでした。
特に注目すべきは、野山獄や萩の野山獄での松陰の行動です。囚人という立場でありながら、松陰は獄中で他の囚人たちに学問を教え、議論を重ね、むしろ獄中の方が充実した教育活動を行ったとさえ言われています。この体験が、後の松下村塾での教育スタイルの原型となりました。
松陰の信念の核にあったのは、「日本を真に独立した強い国にしたい」という愛国心でした。しかし、それは排外的な攘夷思想ではなく、世界の中で日本が対等に渡り合えるような国力を身につけるべきだという、極めて現実的で前向きな考えに基づいていました。
彼が本当に日本に望んだ「社会」の姿と、その教育思想に迫る
松陰が理想とした社会は、一言で表現すれば「一君万民」の社会でした。これは天皇を頂点としながらも、身分制度にとらわれない平等な社会を意味していました。士農工商という厳格な身分制度を否定し、能力と志によって人を評価する社会の実現を目指していたのです。
松陰の教育思想の根底には、「人間の可能性への深い信頼」がありました。どのような身分の出身であっても、適切な教育と努力によって優れた人材に成長できると信じていました。この考えは当時としては極めて革新的で、江戸時代の身分制社会の常識を覆すものでした。
また、松陰は知識の習得だけでなく、それを実際の行動に移すことの重要性を強調していました。「知行合一」という言葉で表現されるこの思想は、学んだことを必ず実践に移し、社会の改革に貢献することを求めるものでした。この教えが、塾生たちを明治維新の実現に向けて行動させる原動力となったのです。
松陰の思想形成:国内外の激動が彼に与えた影響
幼少期の神童ぶりと、兵学・儒学への傾倒
吉田松陰は文政13年(1830年)、長州藩萩城下の松本村で生まれました。本名は杉寅次郎といい、後に叔父である吉田大助の養子となって吉田家を継ぎました。幼少期から並外れた知能を示し、5歳で四書五経を読み、6歳で『孟子』を暗唱したという逸話が残されています。
松陰の学問的基盤は、まず山鹿流兵学にありました。吉田家は代々山鹿流兵学の師範を務める家柄で、松陰も幼い頃からこの兵学を学びました。山鹿流兵学は単なる軍事技術ではなく、武士の精神的修養と国家経営の理論を含む総合的な学問でした。この学問が、後の松陰の国家観の基礎となりました。
同時に、松陰は朱子学を中心とする儒学にも深く学びました。特に『孟子』の性善説と民本思想は、松陰の人間観と政治思想に大きな影響を与えました。孟子の「民為貴、社稷次之、君為軽」(民が最も貴く、国家がこれに次ぎ、君主は軽い)という思想は、後の松陰の政治理念の重要な要素となりました。
海外渡航の夢と挫折:ペリー来航が示した日本の危機
松陰の人生を決定づけたのは、嘉永6年(1853年)のペリー来航でした。当時23歳の松陰は、黒船の圧倒的な技術力を目の当たりにして、日本の軍事的・技術的後進性を痛感しました。この体験が、松陰の世界観を根本的に変えることになります。
松陰は海外の先進技術を学ぶ必要性を強く感じ、翌年のペリー再来航の際に、密航を企てました。金子重輔と共に下田沖の黒船に小舟で近づき、アメリカ行きを懇願しましたが、ペリーに拒絶されて失敗に終わりました。この事件により、松陰は国禁を犯した罪で萩の野山獄に投獄されることになります。
しかし、この挫折は松陰の思想をさらに深化させる契機となりました。海外渡航の夢は潰えましたが、日本国内で何ができるかを真剣に考えるようになったのです。獄中で松陰は、「日本改造」のための具体的な構想を練り始めました。外国の技術を学ぶことも重要だが、それ以上に日本人自身の精神的覚醒が必要だと考えるようになったのです。
佐久間象山との出会い:開国と富国強兵の思想
松陰の思想形成に決定的な影響を与えたのは、佐久間象山との出会いでした。象山は信濃国の洋学者で、早くから西洋の科学技術の重要性を認識していました。松陰は嘉永4年(1851年)に象山の門下生となり、約1年間江戸で学びました。
象山から学んだ最も重要な思想は、「東洋道徳、西洋芸術」という考え方でした。これは東洋の精神的価値を保持しながら、西洋の技術を積極的に取り入れるべきだという思想です。松陰はこの考えを自分なりに発展させ、「和魂洋才」的な国家建設の方向性を見出しました。
象山はまた、攘夷論者が多い中で、開国の必要性を早くから主張していました。鎖国を続けることは日本の発展を阻害するだけでなく、かえって外国からの侵略を招く危険性があると考えていたのです。松陰は当初攘夷論者でしたが、象山の影響で次第に開国論に転じていきました。
象山との師弟関係は短期間でしたが、松陰の世界観を大きく広げることになりました。日本という小さな島国の視点ではなく、世界全体の中での日本の位置づけを考える視点を得たのです。この国際的な視野が、後の松陰の教育と政治思想の重要な特徴となりました。
松下村塾の教育:身分を超えた「人間育成」の場
杉家私塾から松下村塾へ:その成り立ちと特徴
松下村塾は元々、松陰の叔父である玉木文之進が文政13年(1830年)に開いた私塾でした。杉家の敷地内にある小さな建物で、近隣の子弟に読み書きや儒学を教えていました。松陰が野山獄から出獄して実家で蟄居生活を送っていた安政2年(1855年)、叔父から塾を引き継ぐ形で教育活動を開始しました。
松陰が主宰した松下村塾の最大の特徴は、従来の寺子屋や藩校とは全く異なる教育方針にありました。まず、身分による差別を一切行わなかったことです。武士の子弟はもちろん、農民や町人の子も同じように受け入れ、同じ志を持つ仲間として扱いました。このような平等主義的な教育は、当時の常識からすれば革命的なものでした。
また、年齢による序列も重視しませんでした。才能ある年少者は年長者よりも重んじられ、議論の場では年齢に関係なく自由に発言できました。松陰自身も塾生たちとは師弟関係というよりも、共に学び合う同志として接していました。この対等な関係が、塾生たちの自主性と創造性を大いに刺激したのです。
高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文…塾生たちの多様性と才能
松下村塾で学んだ塾生の顔ぶれを見ると、その多様性に驚かされます。高杉晋作は長州藩の上級武士の家柄でしたが、久坂玄瑞は医者の子、伊藤博文は農民の子でした。身分的には大きな差があったにもかかわらず、塾内では完全に平等な関係で学んでいました。
高杉晋作は松陰の教育思想を最も忠実に体現した人物の一人でした。奇兵隊の創設や四カ国艦隊下関砲撃事件での活躍など、常に時代の最先端で行動し続けました。彼の革新的な発想と実行力は、松下村塾での自由闊達な議論の中で育まれたものでした。
久坂玄瑞は松陰が最も期待していた弟子の一人で、「松門の双璧」と呼ばれました。優秀な頭脳と雄弁な弁論術を持ち、尊王攘夷運動の理論的指導者として活躍しました。残念ながら禁門の変で若くして戦死しましたが、その思想は後の志士たちに大きな影響を与えました。
伊藤博文は農民出身でありながら、後に初代内閣総理大臣となった立身出世の典型例です。松陰は身分に関係なく人材を見抜く眼力を持っており、伊藤の才能を早くから認めていました。伊藤が明治政府で重要な役割を果たせたのは、松下村塾での経験が大きな基盤となっていました。
「読書」と「議論」:知識だけでなく、実践を重んじた教育法
松下村塾の教育方法は、従来の暗記中心の教育とは根本的に異なっていました。松陰は塾生たちに古典を読ませる際も、ただ暗記させるのではなく、その内容について深く考えさせ、現代の問題との関連性を議論させました。
特に重視されたのは、時事問題についての議論でした。松陰は国内外の最新情報を集め、それを題材として塾生たちと議論を重ねました。ペリー来航、ロシアの南下政策、中国の阿片戦争など、当時の国際情勢について詳しく分析し、日本がとるべき方針を検討しました。
松陰の教育方針で最も特徴的だったのは、「実践」を重視することでした。学んだ知識は必ず行動に移すべきだと説き、塾生たちに実際の政治活動への参加を奨励しました。これは当時の一般的な教育機関では考えられないことでした。松陰自身が示した行動力が、塾生たちの手本となっていたのです。
また、松陰は塾生一人一人の個性を重んじ、画一的な教育を行いませんでした。それぞれの特性や関心に応じて異なる課題を与え、個別指導を重視しました。この個別教育こそが、多様で優秀な人材を輩出できた秘訣だったのです。
松陰が教えた「志」と「行動力」:未来を切り拓く力
「草莽崛起(そうもうくっき)」の思想:民衆の力を信じた理由
松陰の政治思想の中で最も革新的だったのは、「草莽崛起」の考え方でした。草莽とは「草野の民」、つまり一般民衆のことを指し、崛起は「立ち上がる」という意味です。これは、国家の変革は支配階級だけでなく、民衆の力によって実現されるべきだという思想でした。
この思想が生まれた背景には、松陰の現実的な情勢分析がありました。当時の幕府や藩政府は、西洋列強の脅威に対して有効な対策を打ち出せずにいました。既存の権力構造では日本の危機を乗り越えることができないと判断した松陰は、新しい力の結集が必要だと考えたのです。
松陰が民衆の力を信頼した理由は、彼の人間観にありました。身分や出身に関係なく、全ての人間には無限の可能性があると信じていました。松下村塾で農民出身の伊藤博文らが優秀な才能を示したことも、この信念を裏付けるものでした。適切な教育と機会さえ与えられれば、誰でも国家に貢献できる人材になれると考えていたのです。
この草莽崛起の思想は、後の明治維新において重要な役割を果たしました。薩長土肥の下級武士たちが中心となって倒幕運動を展開したのは、まさに草莽崛起の実践でした。松陰の思想が、明治維新の原動力となったのです。
批判精神と先見の明:既成概念を打ち破る思考
松陰の思想の特徴の一つは、既成概念や権威に対する鋭い批判精神でした。彼は江戸時代の身分制度、鎖国政策、そして幕府の外交政策などに対して、容赦ない批判を展開しました。しかし、その批判は単なる破壊的なものではなく、常により良い代替案を提示する建設的なものでした。
特に注目すべきは、松陰の国際情勢に対する先見性でした。ペリー来航以前から、松陰は日本の鎖国政策が限界に達していることを理解していました。世界が急速に一体化していく中で、日本だけが孤立を続けることは不可能だと予見していたのです。
松陰はまた、西洋列強の東アジア進出についても的確な分析を行っていました。中国の阿片戦争の結果を詳しく研究し、日本も同様の脅威に直面する可能性があることを早くから警告していました。この危機感が、急速な国力増強の必要性を説く根拠となっていました。
教育においても、松陰は従来の詰め込み教育を批判し、自ら考える力を育成することの重要性を強調しました。暗記中心の学習では、変化の激しい時代に対応できないと考えていたのです。この教育観は、現代でも十分通用する先進的なものでした。
行動することの重要性:なぜ彼は命がけで行動し続けたのか?
松陰の生涯を通じて一貫していたのは、「知行合一」の実践でした。どれほど立派な理論や思想を持っていても、それを実際の行動に移さなければ意味がないと考えていました。この信念が、松陰を常に危険な行動に駆り立てる原動力となっていました。
黒船密航事件は、この「知行合一」の典型的な例でした。海外の知識を得る必要性を理論的に理解するだけでなく、実際に命を賭けてその実現を図ったのです。失敗に終わったとはいえ、この行動力こそが松陰の真骨頂でした。
松陰が塾生たちに教えた最も重要なことの一つも、この行動力でした。「学問は行うためにあり、行わない学問は学問ではない」と繰り返し説いていました。塾生たちが後に明治維新の実現に向けて果敢に行動できたのは、この教えが深く浸透していたからでした。
松陰にとって行動とは、単なる衝動的な行為ではありませんでした。深い思索と入念な準備に基づいた、計算された行動でした。安政の大獄で処刑される直前まで、松陰は冷静に情勢を分析し、後に続く者たちのための道筋を示そうとしていました。この姿勢が、塾生たちに与えた感化は計り知れないものがありました。
松陰の目指した「理想社会」の具体像
尊皇攘夷の真意:天皇を核とした「新しい国」の形
松陰の政治思想を語る上で避けて通れないのが、「尊皇攘夷」の考え方です。しかし、松陰の尊皇攘夷思想は、一般的に理解されているような単純な外国排斥論ではありませんでした。むしろ、天皇を中心とした新しい国家体制の構築と、日本の真の独立の実現を目指すものでした。
松陰が考えた「尊皇」とは、天皇の権威を政治の中心に据えることで、全国民の統合を図ろうとするものでした。江戸時代の複雑な政治構造(幕府、諸藩、朝廷の三重構造)では、国家的危機に迅速に対応できないと考えていたのです。天皇のもとに全国民が結集することで、強力な統一国家を建設しようとしていました。
「攘夷」についても、松陰の考えは時期によって変化していました。初期には文字通り外国を排斥する考えでしたが、佐久間象山の影響を受けて以降は、「実力をつけてから対等に交渉する」という意味に変わっていきました。一方的に屈服するのではなく、日本の主体性を保ちながら国際関係を築くべきだと考えていたのです。
この思想の背景には、中国の阿片戦争の教訓がありました。軍事力で劣る国は、結局は列強の植民地にされてしまう。そうならないためには、迅速な富国強兵が必要であり、そのためには強力な中央政府が不可欠だと考えていました。
富国強兵と開国:世界の中で日本が生き残るための道
松陰の国家戦略の核心は、「富国強兵」の実現にありました。しかし、これは単純な軍事力の強化ではなく、国家の総合的な力の向上を意味していました。経済力、技術力、教育水準、そして国民の精神力の全てを向上させることで、西洋列強に対抗できる国家を建設しようとしていたのです。
富国強兵を実現するためには、西洋の先進技術を積極的に導入する必要があると考えていました。そのためには開国が不可欠であり、鎖国政策の継続は日本の発展を阻害するだけだと判断していました。この点で、松陰は多くの攘夷論者とは一線を画していました。
松陰は特に教育の重要性を強調していました。国家の真の力は、国民一人一人の能力の向上にかかっていると考えていたからです。西洋の技術を導入するだけでなく、それを理解し発展させることができる人材を育成することが、最も重要な国家戦略だと位置づけていました。
また、松陰は国際法の重要性も理解していました。力だけでは国際社会で生き残ることはできず、法的な知識と外交的な技術も必要だと考えていました。この認識は、当時の日本人としては極めて先進的なものでした。
士農工商の区別なき「一君万民」の社会像
松陪が描いた理想社会の最も革新的な側面は、身分制度の廃止でした。「一君万民」という言葉で表現されるこの社会像は、天皇のもとに全ての国民が平等に位置する社会を意味していました。士農工商という厳格な身分制度は、国家の発展を阻害する時代遅れの制度だと考えていたのです。
この思想の根拠となったのは、松陰の人材観でした。松下村塾での体験を通じて、出身や身分に関係なく優秀な人材が存在することを確信していました。国家の発展のためには、能力のある人材を身分に関係なく登用することが不可欠だと考えていました。
松陰は特に「商」の重要性を理解していました。従来の儒学的価値観では商業は軽視される傾向がありましたが、松陰は国家の富強のためには商業の発展が不可欠だと考えていました。西洋列強の経済力の源泉が商業と工業にあることを理解していたからです。
また、松陰は女性の教育についても先進的な考えを持っていました。母親の教育水準が子供の成長に大きな影響を与えることを理解し、女性にも適切な教育を施すべきだと主張していました。この考えは、当時としては極めて革新的なものでした。
受け継がれた教え:明治維新と松陰の遺志
塾生たちが果たした役割:維新の原動力となった松陰のDNA
吉田松陰の死後、松下村塾の塾生たちは師の遺志を受け継いで、明治維新の実現に向けて活動を続けました。彼らの活躍は目覚ましく、幕末から明治初期にかけての重要な出来事の多くに、松下村塾出身者が関わっていました。
高杉晋作が組織した奇兵隊は、身分を問わず志のある者を集めた軍事組織でした。これは松陰の「草莽崛起」思想の具体的な実践であり、従来の武士中心の軍事システムを根本的に変革するものでした。奇兵隊の成功は、他藩にも同様の組織を作らせる契機となりました。
久坂玄瑞は尊王攘夷運動の理論的指導者として活躍し、多くの志士たちを触発しました。彼の雄弁な演説と鋭い論理は、松下村塾での議論の訓練の成果でした。残念ながら禁門の変で戦死しましたが、彼の思想は後継者たちに受け継がれました。
伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎らは、明治政府の中枢で重要な役割を果たしました。彼らが推進した諸改革には、松陰の教えが色濃く反映されています。特に教育制度の整備、富国強兵政策の推進、立憲政治の導入などは、松陰の思想の延長線上にあるものでした。
明治新政府に松陰の思想はどれほど反映されたのか?
明治新政府が実施した諸改革を検討すると、松陰の思想が多くの分野で実現されていることがわかります。まず、王政復古によって天皇を中心とした政治体制が確立されました。これは松陰の「尊皇」思想の実現でした。
身分制度の廃止と四民平等の実現も、松陰の「一君万民」思想の具現化でした。士農工商の区別が撤廃され、能力主義に基づく人材登用が行われるようになりました。松下村塾出身者の多くが重要なポストに就いたことも、この方針の表れでした。
富国強兵政策も、松陰の国家戦略の忠実な実行でした。殖産興業による経済発展、軍事力の近代化、教育制度の整備などは、全て松陰が主張していた政策でした。特に教育に関しては、学制の公布によって国民皆教育が実現され、松陰の理想が形になりました。
開国政策についても、松陰の先見性が証明されました。不平等条約の改正という課題は残りましたが、積極的な外交によって日本の国際的地位を向上させることができました。岩倉使節団の派遣、条約改正交渉の継続、そして最終的な治外法権の撤廃など、松陰が目指した「対等な国際関係」が段階的に実現されていきました。
しかし、松陰の思想が完全に実現されたわけではありません。特に民衆の政治参加については、松陰が理想とした水準には達しませんでした。自由民権運動が起こったことは、松陰の「草莽崛起」思想がまだ十分に実現されていないことを示していました。
時代を超えて語り継がれる松陰のメッセージ
吉田松陰の思想と教育は、明治維新の実現だけでなく、その後の日本の発展にも大きな影響を与え続けました。松陰が重視した「志」と「行動力」は、多くの日本人の精神的支柱となりました。
特に教育分野では、松陰の影響は長期間にわたって続きました。個人の可能性を信じ、実践的な学習を重視し、議論を通じて思考力を鍛えるという松陰の教育方針は、後の教育改革の指針となりました。師弟関係よりも同志的関係を重視する姿勢も、近代教育の発展に寄与しました。
松陰の国際的視野も、後の日本人に大きな影響を与えました。日本という狭い枠にとらわれず、世界全体の中で日本の位置づけを考える視点は、明治以降の日本の発展の原動力となりました。同時に、西洋の技術を学びながらも日本の精神的価値を保持するという姿勢は、日本の近代化の特徴となりました。
また、松陰の「知行合一」の思想は、理論と実践を結びつける重要性を示すものとして、多くの分野で評価されています。学んだことを必ず行動に移すという姿勢は、現代のリーダーシップ論でも重要な要素とされています。
吉田松陰の教育と理想が現代に問いかけるもの
激動の時代を生き抜く「志」の重要性
現代は吉田松陰が生きた幕末と同様に、激動の時代と言えるでしょう。グローバル化、デジタル化、気候変動、人口減少など、様々な課題が同時進行で起こっています。このような時代において、松陰が重視した「志」の重要性は、ますます高まっています。
松陰が言う「志」とは、単なる目標設定ではありません。社会全体の幸福を願い、そのために自分は何をすべきかを真剣に考え抜いた上で決意することです。個人的な成功や利益を超えた、より大きな目的のために生きる覚悟を持つことです。
現代社会では、短期的な成果や効率性が重視される傾向があります。しかし、松陰の生き方は、長期的な視野と深い使命感を持つことの重要性を教えています。どれほど困難な状況に置かれても、信念を貫き通す強さこそが、真の変革を生み出す原動力となるのです。
松陰の「志」は決して抽象的なものではありませんでした。具体的な行動計画と結びついており、常に実現可能性を検討していました。現代人が松陰から学ぶべきは、理想を追求しながらも現実的な戦略を立てることの重要性です。
教育が社会にもたらす変革の力
松下村塾の成果を見ると、教育が社会に与える影響の大きさを改めて実感します。わずか2年余りの教育期間で、これほど多くの優秀な人材を輩出し、国家の変革を実現したことは、教育の持つ可能性を証明しています。
松陰の教育方針で最も重要だったのは、知識の伝達よりも人格の形成を重視したことでした。単に情報を覚えさせるのではなく、自分で考え、判断し、行動できる人間を育てることを目標としていました。この方針は、AI時代を迎えた現代の教育にとっても重要な示唆を与えています。
また、松陰は一人一人の個性を大切にし、画一的な教育を避けていました。全ての人間が同じ能力を持っているわけではないが、それぞれに固有の価値と可能性があると考えていました。この個別最適化の考え方は、現代の教育改革でも注目されている概念です。
松陰が実践した「議論を通じた学習」も、現代教育にとって重要な要素です。一方的に講義を聞くのではなく、自分の意見を述べ、他者の意見を聞き、議論を通じて理解を深める。この能動的な学習スタイルは、創造性と批判的思考力を育成するために不可欠です。
私たちが歴史から学ぶべき「未来を創る視点」
吉田松陰の生涯から学ぶべき最も重要な教訓は、「未来を創る視点」の持ち方です。松陰は常に現状に満足することなく、より良い未来を想像し、そのために今何をすべきかを考え続けていました。
松陰の未来志向は、単なる楽観主義ではありませんでした。現実の問題を冷静に分析し、困難を正面から受け止めた上で、それでも希望を失わずに前進し続ける姿勢でした。この現実的楽観主義こそが、困難な時代を乗り越える原動力となるのです。
また、松陰は個人の幸福と社会の発展を対立するものとして捉えていませんでした。個人が自分の能力を最大限に発揮することが、結果として社会全体の発展につながると考えていました。この考え方は、現代の持続可能な発展の概念にも通じるものがあります。
松陰の国際的視野も、グローバル化が進む現代にとって重要な示唆を与えています。自国の利益だけを考えるのではなく、世界全体の中での自国の役割を考える視点。他国から学ぶべきことは積極的に学びながらも、自国の良さを失わない姿勢。これらは現代の国際関係においても重要な原則です。
最後に、松陰が最も大切にしていたのは「人間の尊厳」でした。身分、財産、能力の違いを超えて、全ての人間が等しく尊重されるべき存在だと考えていました。この人間観こそが、松陰の全ての思想と行動の基盤となっていました。
現代社会は技術の発展によって便利になった一方で、人間関係の希薄化や格差の拡大など、新たな問題も生じています。このような時代だからこそ、松陰が重視した人間の尊厳と相互尊重の精神が、ますます重要になっているのです。
吉田松陰が目指した社会は、完全に実現されたわけではありません。しかし、彼が示した理想と方法論は、現代を生きる私たちにとっても価値ある指針となり続けています。一人一人が志を持ち、学び続け、行動することで、より良い未来を創造していく。これこそが、松陰から現代への最も重要なメッセージなのです。